きれいなジャイアンに見る人の存在意義

まずはコレを見て欲しい。


この道具の詳しい機能は忘れたが、泉に入ったジャイアンが人としての理想像となって出てくる。

これを見て何を感じるだろうか。

他人に迷惑ばかりかけるような人間は社会には必要ない
ということを皮肉っているとは感じないだろうか。

全ての人間がこの泉に放り込まれて、クリーンな人間のみになれば非常に潤滑に社会が回る。

だが、同時に
きれいなジャイアンよりも汚いジャイアンの方がいい
という意味も含まれている。

社会の常識や知識をに縛られて、優等生ばかりの社会よりも、
皆が個を持って動く社会の方がいい。


どちらの社会にも甲乙はつけがたいが、
どうも官僚やら政府やらのお役人は前者(クリーンな社会)、
マスコミやエンターテイメント、俗的な立場の人は後者(個性の社会)
に偏りがちな気がする。

たしかに、前者ではスムーズに災いも少ない効率のよい社会となろうが、おもしろくないかもしれない。
でも、後者はおもしろいかもしれないが、社会貢献・社会責任という観点が失われた作品が世に出されていることも否定はできないであろう。

子供の名づけにこんなものが出てくるのも後者の社会がTVなどで重視されすぎているからなのだとも思う。


バランスが大事、なんて陳腐な結論は出したくない。だから結論は出さない。。。てか出ない・・・
ここが俺の今の文章の限界か。